竹宮恵子『風と木の詩』メディア: この商品を含むブログを見る

 今更ながら、『風と木の詩』の感想。ネタバレあり。

 同性愛話という違和感は特に無かった。だけに、特にはそっちの方面の感慨もない。
 「学校」という空間は、「社会」とは別の論理を持った異質の空間として存在するわけで、「風と木の詩」もその「学校」空間の特質がなければ成り立たない物語。「社会」の論理からすれば、どうでもいいというかもっとうまく対処できそうな事が、とてつもない重大事となってみなそれに頭を悩ませるという、そういう空間。

 んでもって、それが「青春」なのだ、と描かれているわけで、ラストでは皆々当然のように「青春」を乗り越えて現実の「社会」へと進んでいくことが示されている。
 そこに適応できないジルベールは死ぬしかない。基本的に、我等一般ピープルは「社会」に適応し生きていくわけで、ゆえにこそジルベール的なありかたに、憧憬するのではないか、と。


 ジルベール的なありかた、とは何か?
 毎日遊び狂って、酒に耽り、男に抱かれまくり、ついでにレイプされて、クスリまで打たれて。
 しかし、それでも、なお美しくあり、世にすれることがない。汚しても汚しきれない。
 漫画じゃねえか、と言ってしまえばそれまでだが、そのような不可能な存在ゆえに、上記の憧憬が存在する。
 んでもって、パスカルをはじめとする一般ピープルは、「ジルベールすげぇ。俺らも青春過ごしたね、あのころは」と勝手に憧憬する。卑怯くさい、存在である。セルジュくんもおっさんになって、「我が最愛の人。我がラビィアンローズよ」とが言いながら、酒をかっくらうのである。
 人間って、多分そんな感じなのではないか。

 んでもって、一人異彩を放つのが、オーギュスト・ボウ様である。なんだかんだいって、もうおっさんのはずの彼は、どうもジルベールくんのことしか興味が無いらしいし、貴族の次男坊をいいことに学院の影の支配者になってみたり、好き放題である。早く大人になって欲しい。辛い過去があるのはようわかったが、ロマネリオくんもセルジュくんも君にレイプされてもきっちり立ち直ったと言うのに。この二人をレイプするエピソードも、色々理由をつけてはいるけど、オーギュ様のたんなる趣味の一環という気がする。ジルベールとオーギュ様は、この物語に出てくる中で「社会」に適応できない、ただ二人の存在だ。と考えれば、やっぱジルベールはオーギュの下で放置プレイをまじえつつ暮らすのが、ベストだったのでしょうか。

 と、読後の興奮を踏まえつつ、メモしてみました。
 うーん。アップしてみたけど、電波ゆんゆんですな。消すかも。