大澤真幸『現実の向こう』春秋社、2005年。現実の向こう作者: 大澤真幸出版社/メーカー: 春秋社発売日: 2005/01/01メディア: 単行本 クリック: 11回この商品を含むブログ (28件) を見る

 書店での講演をもとにした第一章「平和憲法の倫理」・第二章「ポスト虚構の時代」。書き下ろしの第三章「ユダとしてのオウム」で構成されている。

 もはや批判のみでは力を持ち得ず、具体的な対案を指し示さないといかんのであるといいながら、あまり現実味のなかったりどう見ても穴がある対案を書いていたり、いつも通り印象批評的な切り口からのジャンプの連続で論が組み立てられていたりと、真幸節全開。そういう胡散臭さの中にぐっと来るものがちりばめられていることも含めて。第二章は、真幸先生の戦後の時代区分論や東浩紀の「動物化の時代」に興味のある人は、読んで損がないものでしょう。
 あと、講演をまとめたものであり、読みやすいのが嬉しい。
 
 ★★★★☆。
 

 以下、自分用メモとして*1

 第一章は、イラク戦争におけるアメリカとヨーロッパの対立を題材にしている。前者は<他者>という不確実性を抹消するための先制攻撃的防衛であり、後者は同じ近代理念という同じテーブルにつき交渉のすえにわかりあえるものとして他者を想定する。すなわち後者においても不確実性の存在としての<他者>は存在しない。
 そこで、理解し合える他者を想定するのではなく、理解し合えない<他者>を消滅させるのではなく、理解し合えないままに徹底的にコミュニケートせよ、直接的に接触せよ、と。当然、ばりばりと問題が生じてきて、差異がつきつけられるわけですが、それは接触した両者を変容させることになろうと。そも対立の問題とは、「譲れない主張を持つ確固たる両者」があるゆえに解決困難なのだから、両者が変容することにより共存の可能性が生じるのではあるまいか。
 また、対話における作法、民主主義においても、不確実・偶有性は取り戻さなければならない、と。我流の強引な読みを披露するならば、必然性としてあらわれてくる「結論」は操作可能な対象として存在するのであり、納得しないものはそれを粛々として受け入れることが出来ない。偶有性による「結論」ならば、それはさいころの目のように、確率でしかなく、思うままの目が出なくても、「まーしゃーない」ということになるのだ。

 第二章。かつて真幸先生は、『虚構の時代の果て』において、戦後から1970年を「理想の時代」、1970年から1995年ぐらいまでを「虚構の時代」と位置づけた。その後の時代とは何か、という話。松本清張原作のドラマ「砂の器」は1960年代にオリジナルが放映され、2004年にリメイク版が登場した。それぞれ時代区分の転換期を象徴する作品であり、その差異を抽出することによって、それぞれの時代とはなにかがわかるであろう、という見立て。
 で、「砂の器」に関する細かい話がだーっと60頁ぐらいあって、真幸先生ドラマ見過ぎです、ついでに言えば「ネットではこのような議論があって…」というのも何回かあって、真幸先生ネット(2ちゃんねる?)見過ぎです、と言いたくなるのですが、核心だけ取り出すと、「砂の器」における父の位置付けが問題になります。
 「砂の器」は成功した音楽家が、「自分の隠蔽した過去=父」の存在を知る人間を殺してしまうというお話らしい。「理想の時代」とは、第三者の審級アメリカ=戦後民主主義であった。で、ヴェトナム戦争やらなんやらでその位置が空白になっていくのが、「理想の時代」の終焉である。オリジナル版「砂の器」における父とは、その代わりに召喚された第三者の審級=戦争の死者なのだ。
 では、2004年版はというと、自分の現在を説明する悲惨な過去の捏造として父が創造されている。自分の現実を説明してくれる「より現実らしい」仮想が求められているのだと。どちらも第三者の審級空位になる時期に、それに代わるものを得ようとしているわけです。オウムの荒唐無稽な世界観も同様に、世界を説明する「現実」として存在するのだ、と。そも世界の認識枠として駆動する現実とは総体として認識・体験することは不可能で(このあたり、いまいち読み取れていないかも)あるのだ。それの代替物としてある「現実」という仮想を求める時代は、だから「不可能性の時代」と呼ぶのが相応しかろう。

 第三章。真幸先生がたびたび語ってきたように、オウムとは日本の写し鏡として存在する。ゆえにオウムの変革と解放の可能性を考えることは、日本のそれを考えることと同義となろう。
 で、どうするか。オウムの修行を特徴づけるものとして、密室修行がある。サティアンもそうだし。これを反転させるのだ。組織も教義も信者もひたすら開放的・可視的になり、コミュニケーションをとりまくれ。被害者のもとへ行き、謝罪としてコミュニケート。地域社会ともそう。
 みたいな話が続く。第二章で言っている現実認識とその解決手段であるところの第一章を、オウムを主人公として具体化して見せている。
 で、タイトルの「ユダとしてのオウム」の意味なのですが、そうはいってもなかなか転換できないよね。それを唯一指示できる人間は、麻原しかないよね。そもキリストもユダに自らを売るようにひそかに示唆していたのではないか。磔によってキリスト教を完成させるために。麻原もそうできるのではないか。というお話が最後についている。だから、このタイトル。

*1:人にうまく説明できる文章ではない時の常套句