大塚英志『物語消滅論――キャラクター化する「私」、イデオロギー化する「物語」』角川ONEテーマ21、2004年(isbn:4047041793)。

 『物語消費論』(ISBN:4044191107)を楽しく読んでしまった人間は買わずにはいられない題名。帯も「イデオロギーに代わって「物語」が社会を動かし始めた――。「物語」の動員力にいかに抗していくのか?」とか格好いいこと書いてあるし。相変わらず商売上手いですな。語りおろしということもあってか、内容は大塚がどこかで書いていたことをもう一度収録したものだし、付けられている注もやっつけ仕事が多かったりと正直本を作る「熱意」の薄さのようなものは感じた。ただ読んでいく内に、私のようなものわかりの悪い人間には、大塚の発言の整理本という意味では悪くないかも、と。
 東浩紀動物化するポストモダン』(ISBN:4061495755)もそうだけど、彼らの語る「今」というのは構造主義/属性/記号というのが貫徹していて、おそらく僕ら生活者がみな無意識にその手の認識を共有しているということ。自分の実感としてもまあそれは首肯できる。つまりある種の情報の断片をもとに物語を組み立てるという作法を、ぼくらはかなりあたりまえに受け止めているというか。
 ただ高度情報化社会のなかで飛び交う情報の速度、量は圧倒的に増えているとは思うけれども、そういう作法というのは、例えば70年代を期に広がったものだったのかについてはかなり疑問。大塚にしても明治の「私小説」=キャラクター小説は、時間軸に依るものであって今のそれとは違うのだ、というけれども、時間軸の説明があまり説得力を持つものとは読めなかった。自分の研究に即していえば、前近代の民衆と権力の社会的合意なんかは、自らの生存環境を維持するためにかなり意識的に選び取られた物語として機能していたように思うわけです。
 まあ、もっともこういう感想を持つこと自体が70年代以降に生を受けたモノだからわからないんだ。自分の体験を歴史化出来ていないね、とか言われてしまいそうですが。★★★★☆。

 メモ
○第一章 創作する読者と物語るコンピュータ
 まず「物語消費論」のおさらい。ストーリー・マーケティング的なモノのコード化(DCブランド、ビックリマン)。ゆえに物語は構造化され、習得可能な技術として存在。そのような、「物語の構造」をブルーカラー的に身につける技術の必要性(ハリウッドのストーリー・エディター)。

○第二章 キャラクターとしての「私」
 近代の言文一致体、「私」を描く小説。→近代化の中での「私」を形成するものとして。ただし「私」=時間軸に沿うキャラクター。1970年代以降の「私」の復活、ただし属性に沿うキャラクターとして。属性に沿うキャラクターを定位させる意味での新たな文学の必要/不在。そういう社会での居場所を見つけられない/逸脱するものは、サブカルチャー(人間を画一化して動員していくテクノロジー的な思考の産物)では無理。

○第三章 イデオロギー化する「物語」
 1970年代までのイデオロギー社会進化論的なもの、それ以降物語論的な因果律イデオロギー(の代替物)に。構造化される世界=構造主義記号論、属性といったもので判別、レッテル張りが容易い世界。その世界で生き延びる技として、物語論の各自の習得と抑止する文芸批評の必要性